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当院の紹介

当院は、臨済宗方広寺派・宗教法人西江院と称します。
本尊十一面千手観音菩薩を本尊とし、「禅宗」を信奉し、自己の本心を悟り、安心立命し、社会浄化に献身することを旨といたしております。

開創は寛政二年(1461)竹宥宗賢和尚とされております。
過去帳に記載が見られるのは慶安二年(1649)頃からであります。
古文書には西江庵と記されています。

当院の山沿いの地に、薬師如来を本尊とする小祠堂があります。参道を如来坂と呼ばれているほど古い名残りを留めています。
西江院の前身は、この寺の支院的存在だったと想像される資料が発見されています。二尺足らずの石塔ですが、五輪を刻んだ型は、当時としては珍しいもので、かなり有名人の供養塔と見受けられます。これと同種のものが如来堂の瓦にありますから、無関係とは思われません。中世には鴨江寺、大山寺などの大寺の支院が、この地方には多くあったのです。

過去帳の記録には、当院の開山竹宥宗和尚ー示寂(死亡)は延徳元年(1489)と見えています。二世清巌和尚(1672没)に至る百八十年あまりの記録は少なく、この間は空白といってよい程です。
二世清巌和尚には「中興」の称号が冠せられていることから、よほど貢献のあったものと思われます。 因に「中興」は一寺を建立する程の事業をなしたほどの功績がないと認められない名誉ある尊称です。
思うに開山竹宥和尚より二世清巌和尚に至る間は、中央も地方も治安の好ましくない時代でした。当院二世を名乗る時代から、徳川政権が確立され、管理態勢が整備されて来て、寺院も宗派に統制され、本寺、末寺の関係(法類)が厳格にいわれる様になりました。
当時の住職清巌和尚により、西江院が再興されたものと 見る可きです。
近世になって、白隠、東嶺の両禅師の来訪がありました。宝歴十三年(1763)に「冨泉山」の山号を揮毫されています。 東嶺禅師年譜には「この地演法大いに行わる」と記されています。山水の渇れることのないように、仏法も絶えないようにと 示されたものと思われます。
白隠・東嶺といえば、日本禅宗界の大御所という可き名僧で、国師号を宣下された人ですから、どのようなご縁で来山されたのかは考えられませんが、当時の住職と法友だったことでしょう。

当院の鎮守神について知る人は少ないと思いますが、古来白山妙理大権現と熊野山大権現が定められています。
加賀の白山、紀州の熊野山といえば、中世修験道の霊地として、山岳仏教の盛んな時代がありました。各地に講中が結成され、分霊場も設けられるまでに発展しました。浜松地方にも白山信仰が伝えられています。特に白山権現は、十一面観音の化身だとされていますので、当山には因縁の深い鎮守神として定められたのです。
ここに中世より引きつがれた信仰の流れの中に西江院もあることが裏づけられています。尚、熊野山大権現は明治以後、熊野神社として神道の系列に組み込まれましたが、明治までは寺僧の管理下におかれたものです。

歴代住職の墓地は西方の山上にありました。今は土地改良事業にならって、平地となった地に下っておりますが、無縫塔のない住職もあり、徒弟の身分で終わった僧たちも、近くの農家出身の者が多かったようです。
古老の伝えによると当院は火事で焼けたといいます。しかし時代は不明です。寺に古記録類や伝来の什物のないのは、火難の故もあるが孤貧の厳しさを物語っている様です。
また現在の境内地は竹田家の先祖の寄進であるといわれています。
更に別伝として、開礎のたたえのある先祖を継承する野島家がありいずれも旧家の系譜を残しています。
それぞれの時代の人達が、分に応じて尽力し「仏さまの家」を守って来ました。大東亜戦争の戦火が治って、十年後頃から当院も少しづつ変わって来ました。墓地、参道が整備され、建物も位牌堂・書院・地蔵堂が新築されました。更に平成元年、開山五百年記念事業として野島佳能氏が万人の為の仏苑造成事業を進めました。
平成二十二年十月には本堂、諸堂を新築し、落慶並びに晋山式を行いました。

本堂

本堂




本尊十一面千手観音菩薩

本尊  十一面千手観音菩薩






東嶺和尚揮毫

東嶺和尚  揮毫






般若心経碑

般若心経  碑






阿弥陀如来像

阿弥陀如来像





落慶1
落慶2

本堂諸堂落慶並晋山にて
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<冨泉山西江院>
431-1111
静岡県浜松市西区伊左地町5131
TEL / FAX  053-486-0669
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